ニーベルンゲン の 歌

ニーベルンゲン

Add: isuse18 - Date: 2020-12-15 22:32:13 - Views: 1686 - Clicks: 7559

ブリュンヒルト :イースラントの女王。ジークフリートの奸計によりグンテルと結婚してしまう。 5. See full list on wpedia. ヴォルムスは「ニーベルンゲンの歌」の舞台ともなった町であり、物語をテーマにした記念碑や噴水、博物館が町のなかに点在しています。 駅から町の中心へむかうヴィルヘルム・ロイシュナー通りにあるのは、「ニーベルンゲンの歌の泉」。物語を題材にした、本の形をした泉です。 一番上の2体の像は、ジークフリートと彼を襲う重臣ハーゲン。 竜の血を浴びて不死身となったジークフリートでしたが、血がかからなかった背中の一ヵ所が弱点でした。王国に恥辱を与えたとして彼への報復を決意したハーゲンは、ジークフリートの弱点を聞き出し、そこを槍で突いて殺害してしまいます。 そんな突然の死に見舞われたジークフリートの泉があるのは、町の中心にある観光案内所の目の前。泉の一番上に竜退治をする彼の像が乗っています。 彼の視線の先にあるのはヴォルムス大聖堂。 このほかライン川沿いにハーゲンの像があるほか、物語の登場人物が通りの名前になっている所もあり、物語のファンにはたまりません。12世紀の城壁と塔を改装して造られたニーベルンゲン博物館では、物語や町の歴史に触れることができます。. 宗教改革を行ったルターの功績は、「ルター記念碑」として残されています。宗教改革に関する記念碑としては、スイスのジュネーブに次ぐ大きさ。1868年行われた除幕式では、多くの選帝侯やプロテスタントの重要聖職者をはじめとする約2万人が参加しました。 中心にルターが立ち、周囲にはルターや宗教改革と関わりのあった人物像が置かれています。向かって左の剣を掲げている人物は、帝国を追われたルターをヴァルトブルク城にかくまったフリードリヒ3世。. 剛力無双の勇者であるネーデルラントの王子ジークフリートは、ブルグント国王の妹で、名高い美少女のクリームヒルト姫の噂を聞き、ブルグント国を訪れてクリームヒルトに求婚した。また、クリームヒルトの兄の王であるグンテルは凡庸な男だったが、イースラント(アイスランド)の女王ブリュンヒルトに求婚していた。美貌の一方で大力の女傑であったブリュンヒルトはそれまで数多くの求婚者と武術で勝負し、相手をことごとく打ち殺していた。ブリュンヒルトはグンテルの求婚にも、「私と武術の試合をし、勝てたなら妻になりましょう」と返答する。 そこでジークフリートとグンテルは一計を案じ、ジークフリートの持つ秘宝「隠れ蓑(着る者の姿を隠すマント)」を着てグンテルを手助けし、ブリュンヒルトを打ち負かした。負けるはずがないと思っていたブリュンヒルトは不本意であったが約束通りグンテルと結婚し、国王の信頼を得たジークフリートはクリームヒルトと結婚する。婚礼の夜、王妃となったブリュンヒルトは寝室でグンテル国王を押さえつけて縛りあげ、素っ裸で天井からぶら下げてしまった。その話を聞いたジークフリートは次の晩、グンテルに変装して寝室に入.

英語翻訳者マーガレット・アーマー(英語版)は表題を Fall of the Niebelungs(ニーベルング族の没落)とするなど、財宝を奪われた小人のニーベルング族の祟りを. ヴォルムスのハイライトであるのが、町の一番高い場所に建っている大聖堂。マインツ大聖堂、シュパイヤー大聖堂とともに、ライン川沿いのロマネスク建築を代表する建物のひとつです。 大聖堂の始まりは、600年頃にローマ時代の壁のうえに建てられた教会。その後は時の司教らによって増築が行われていきました。今日見る大聖堂の姿は12世に完成したもので、その後も改装などが行われますが、大部分は当時から変わっていません。 さてヴォルムス大聖堂と言えば、ルターの破門と帝国追放を決定したヴォルムス帝国議会が開かれた場所。1517年に「95ヵ条の論題」を発表したルターの主張は農民層や諸侯に受け入れられ、支持を拡大していきます。 ルター派と教会の対立を調停する必要に迫られたカール5世は、1521年に帝国議会を招集。そこでルターに教義の撤回を求めましたが、彼はそれを拒否。これによりルターの破門および帝国追放が決定するものの、ルターはその前にザクセン選帝侯フリードリヒ3世に助けを求め、ヴァルトブルク城にかくまわれて聖書の翻訳を行ったのでした。 かつてルターの喚問が行われた大聖堂内は、ロマネスク様式ならではのどっしりとした重厚な佇まい。 装飾の少ない大聖堂の中でひときわ華やかさを放っているのが、前方にある祭壇です。1732年に亡くなった大司教のフランツ・ルートヴィヒ・フォン・デア・プファルツの遺言により造られ、設計したのはヴュルツブルクのレジデンツなどを手掛けた天才建築家バルタザール・ノイマン。 側廊部分にはヴォルムスの歴代司教をはじめとする聖職者たちの墓碑が並んでいます。 ほかにも注目したいのはステンドグラス。「聖母マリアの生涯」や歴代司教をモチーフに描かれており、繊細な絵が太陽の光を受けて神秘的に輝きます。. ジークフリート :ネーデルラントの王子。小人のニーベルング族を征服したことで莫大な財産を得ている。クリームヒルトを妻にする。 2. ニーベルンゲン の 歌 グンテル :ブルグント王国(411年 - 1378年)の国王。クリームヒルトは妹。 3. ニーベルンゲンの歌(ニーベルンゲンのうた)とは。意味や解説、類語。《原題、(ドイツ)Das Nibelungenlied》中世ドイツの叙事詩。作者未詳。13世紀初頭の作。古代ゲルマンの英雄伝説をもとに、第一部は英雄ジークフリートの、ブルグント族の王の妹クリームヒルトとの結婚と暗殺による死を. ハゲネ:イースラント女王ブリュンヒルトの重臣。 6.

Directed by Fritz Lang Produced by Erich Pommer Screenplay by Fritz Lang, Thea von Harbou Based on Nibelungenlied Music by Gottfried Huppertz Cinematography. ニーベルンゲンの歌がイラスト付きでわかる! ニーベルンゲンの歌とは、ドイツ系の叙事詩であり、英雄・ジークフリートの活躍とその妻クリームヒルトの復讐を記したものである。. 『ニーベルンゲンの歌〈前編〉』です。 『ニーベルンゲンの宝を守る竜の血を浴びて不死身となったジーフリト。だが妃クリエムヒルトの兄グンテル王の重臣ハゲネの奸計により殺されてしまう。妃の嘆き、そして復讐の誓い。.

ニーベルンゲンの歌 石川栄作訳 (ちくま文庫, に-10-1, に-10-2) 筑摩書房,. 『ニーベルンゲンの歌』(原題、独: Das Nibelungenlied )は、中高地ドイツ語で書かれた叙事詩。英雄・龍殺しのジークフリートの非業の死と、ジークフリートの妻のクリームヒルトの復讐劇を描く。. 未亡人となったクリームヒルトは、フン族の王エッツェルから求婚される。ジークフリートを忘れられないクリームヒルトは乗り気ではなかったが、ある計画のためにエッツェルとの再婚を承諾する。計画とは、フン族の武力を利用してブルグント国を滅ぼし、ジークフリートの仇を討つことであった。 数年後、クリームヒルトは現夫エッツェルに、友好を装ってグンテルはじめブルグントの人々を招待させた。ハゲネはクリームヒルトの意図を疑い反対するが、結局グンテルとブルグント騎士団は千人の使節団を編成し、フン族の国を訪れる。一行がライン河を渡河するとき、ハゲネはローレライから一行の運命について「1人を除き、全員が死ぬだろう」との不吉な予言を聞く。また東ゴート族の王で当時フン族の客分だった勇者ベルンのディートリッヒは、クリームヒルトが復讐を企てていることを使節団に警告する。その後、クリームヒルトはディートリッヒにも復讐計画に助力するように依頼するが断られる。 クリームヒルトはエッツェルの弟ブレーデリンを買収し、歓迎の宴に出席した使節団を襲撃させる。騙し討ちに気づいたハゲネは刀を抜き、宴席にいた幼い王子を斬り殺す。そして. ヴォルムスから電車で20分ほどの場所にあるロルシュという町には、世界遺産に登録されているロルシュ修道院があります。 現在は「王の門」と教会部分しか残っていませんが、カロリング朝時代に建設された修道院としては唯一現存する貴重な建物です。広大な草原の前にぽつりと建っている「王の門」はどこか哀愁を感じさせるものがあります。 修道院の建設は764年、この地を治めていた貴族のカンコールという人物が母と共に私有修道院を建てた事からはじまります。765年に教皇パウロ1世から殉教者ナザリウスの遺骨を譲り受けたことで、巡礼者の数も増加しました。 王家の墓廟が築かれたほか、中世では最大規模となる図書館を備えるなど、神聖ローマ帝国における権力、宗教、文化そして医学知識の中心として栄えたロルシュ修道院。11世紀半ばから13世紀にかけて修道院は最盛期を迎えますが、その後マインツ大司教の手に渡ってからは衰退の途を辿ることに。 17世紀に発生した30年戦争ではロルシュの町も修道院も焼き払われ、「王の門」と教会部分のみが残されたのでした。 「王の門」はドイツで最も貴重な前ロマネスク様式の建物と言われており、アーチや飾り柱などがカロリング王朝時代の面影を色濃く残しています。世界遺産としては見た目のインパクトが少ないですが、歴史的価値の非常に高い建造物です。. 『ニーベルンゲンの歌』は、英雄叙事詩といわれる。 「ドイツのイリヤス」などと称せられて叙事詩の傑作となされている。 英雄詩の伝統に従って作者は名を明かしていないが、成立は1200年頃、パッサウの司教の宮廷近くにいたのではないかと考えられて.

※「『ニーベルンゲンの歌』と伝承⑶」は『教養諸學研究』第 百二十三号(年12月27日発行)に掲載. §27 『ニーベルンゲンの歌』おける「いま」と「むかし」の重なりについて は,既に確認しておいた(「『ニーベルンゲンの歌』と時間⑵」§16).しかし. 全39歌章からなる。元々は前編後編と分けられてはいないが、その内容の性質上、ブリュンヒルト伝説を元にしている部分(1 - 19歌章)を前編、ブルグント伝説を元にしている部分(20 - 39歌章)を後編と分けるのが一般的になっている。詩節数は写本によって差異があるが、現在もっとも原本に近いとされる写本Bは2379節である。もっとも矛盾・齟齬が多い写本Aは2316節、また写本Cは2440節からなっている。 韻文であり、長い2行詩を2つ合わせた構造で書かれている。1行目と2行目、3行目と4行目で脚韻を踏む形となっているほか、強拍・次強拍の並びにも規則性があり、歌全般でそれら規則が守られている。この構造はニーベルンゲン詩節と呼ばれる独特なものである。そのためリズム感に富むと評されるが、現代語、および他言語への翻訳版では当然ながらこの構造は再現不可能である。. . 「ニーベルンゲンの歌」に登場するジーフリトは、その当時、すでにポピュラーな英雄として、数々の武勇を知られていた。 そのため、物語本編では、彼の過去の武勇は、さらりと触れられるに過ぎない。. 16世紀頃から、急速に忘れられていた『ニーベルンゲンの歌』は1755年にリンダウの医師ヤーコプ・ヘルマン・オーペライトにより、オーストリア西部フォアアールベルクのホーエン・エムス伯爵の図書館でその写本が再発見された(13世紀末、写本A)。これを皮切りに現在までに完本・断片合わせて30以上の種類が発見されているが、主なものは「ホーエン・エムス・ミュンヘン本」と呼ばれる写本Aを含む3種類である。そのひとつが、1768年にザンクト・ガレンにある修道院図書館から発見された別系統の写本であり(13世紀半ば、写本B)、もうひとつは19世紀半ばに発見された「ホーエン・エムス・ラスベルク本」と呼ばれる、3つの中では一番詩節数が多い写本である(13世紀前半、写本C)。これら3種の写本はABCの順で詩節数が少なく (Aがもっとも少ない)、また同様にAが最も矛盾や齟齬が多い。 『ニーベルンゲンの歌』は一人の作者によって作り上げられたものなのか、複数の人物が作り上げたものが集った結果なのかという問題は、この物語における論点のひとつであった。19世紀はじめ頃カール・ラッハマンは、この作品は複数の人物によっ. 第8歌章 ジーフリト、ニーベルンゲンの国に赴くこと ニーベルンゲンの戦士に召集をかけ、プリュンヒルトをあっと言わせる なかなかブルゴントへ出発しようとしないプリュンヒルトに対して一同は復讐の危険を感じる。. 前編 第1歌章 ~ ニーベルンゲン の 歌 第19歌章 〔7-328ページ〕 後編 第20歌章 ~ 第39歌章 〔329-684〕 前編訳注 〔685-802〕 後編訳注 〔803-943〕 解説 〔945-1027〕 主要人名・地名表 使用テキスト・参考文献 あとがき 『ニーベルンゲンの歌』の舞台の地図.

『ニーベルンゲンの歌』は古代ゲルマンの英雄歌謡を素材として、十三世紀初頭のドイツの詩人(作者不詳)が英雄叙事詩の形式で作り上げたものである。主人公ジークフリートは竜の血を浴びて「不死身の英雄」となったが、両肩間の一箇所だけは血がつかずに、その急所をのちに悪漢ハー. は,『ニーベルンゲンの歌』を含むあらゆる中世の叙事詩に等しく満ちている と説いた.そして,ニーベルンゲンにまつわる物語を取り扱った「歌謡」の存 在は信じていたが,ラッハマン理論には疑問を呈している. 概要 ジークフリート(Siegfried)は、ドイツの英雄叙事詩『ニーベルンゲンの歌』の主人公。 『古エッダ』、『ヴォルスンガ・サガ』を元にドイツ叙事詩『ニーベルンゲンの歌』等の要素を取り入れて作られたとされるリヒャルト・ワーグナーの楽劇「ニーベルングの指環」の主人公と同名。. 滅ぼされた小人族のことを意味するのではなく、その財宝を持つものをニーベルングと呼ぶのだとする解釈がある。財宝をジークフリートから奪ったブルグント族が後編に入るとニーベルング族と呼ばれるようになっていることなどが根拠として挙げられる。 2. 『ニーベルンゲンの歌』はキリスト教化前のドイツの英雄的主題( ニーベルンゲン伝説 (ドイツ語版) )に基づいているが、それらには口承伝説や5世紀から6世紀にかけて起きた歴史的な出来事や人物が含まれている。. ニーベルンゲン の 歌 11501/1692915 公開範囲 国立国会図書館内公開 詳細表示 資料種別 (materialType.

ブレーデリン :エッツェルの弟。 8. W・ハンゼン著 ; 金井英一, 小林俊明訳. 河出書房新社, 1996. Die Spur der Helden : die Gestalten des Nibelungenliedes in Sage und Geschichte. 『ニーベルングの指環』(ドイツ語: "Der Ring des Nibelungen" )は、リヒャルト・ワーグナーの書いた楽劇。ワーグナー35歳の1848年から61歳の1874年にかけて作曲された。. 【名前の綴りについて】 赤文字は和訳の原本となっているB写本をテキスト化したものから拾ってきた、中世のドイツ語。 vにeのついたものは、「u」に近い発音の文字があります。. ニーベルンゲンの歌の日本初の訳はいつ誰による物でしょうか?その他、ニーベルンゲンの歌の日本での翻訳史について詳しく書かれたサイトや資料について知っている方教 えて頂けたら幸いです ニーベルンゲンの歌昭和30年(195. 「ニーベルンゲンの歌」は13世紀に書かれたと言われている英雄叙事詩。 ネーデルラントの英雄ジークフリートとブルグント国王の妹であるクリームヒルトの結婚、国王の側近ハーゲンによるジークフリートの謀殺、そして夫を殺されたクリームヒルトの復習など、愛と憎しみそして戦いをテーマにした壮大な物語です。 成立時のオリジナル言語は中高ドイツ語ですが、もちろん今は現代語に訳されている「ニーベルンゲンの歌」や絵本版もあり、アドベンチャーや中世が好きな子供や若者から一定の支持を得ています。また研究対象としても大変価値があり、中世文学の授業では必ずといっていいほど取り扱われています。 日本語訳もあるので、興味のある方はぜひ読んでみてください。ちょっと長いですが、神話伝承や歴史要素が融合したストーリーにどんどん引き込まれて、あっという間に読み終えてしまいますよ。.

当サイトでは叙事詩「ニーベルンゲンの歌」(1205)を出発点にその受容の変化を見ていきます。 ニーベルンゲンの歌のテーマは戯曲、オペラ、映画ついには漫画として立ち代り私たちの前に現れてきます。. ニーベルンゲンの歌―註釈 (1957年) (Altdeutsche Bibliothek Band〈第2〉). ヴォルムスはニーベルンゲンの歌の舞台となったほか、宗教改革やユダヤ人などドイツの歴史を語る上で重要な出来事との関連が非常に強い町。ドイツの歴史に興味のある方にはぜひ訪れてほしいです。 また「ニーベルンゲンの歌」も素晴らしい物語なので、この投稿で興味を持った方はぜひ読んでみてください。中世の世界観にどっぷりと浸ることができますよ。 ロルシュ修道院はほんの一部しか残されていませんが、威厳ある「王の門」の前に立つと、かつてこの修道院が手にした権力や地位の大きさが時空を超えて感じられるようでもあります。周辺の街並みも可愛らしいので、こちらの散策もぜひ楽しんでください。.

成立以後好評を博し、写本が重ねられていた『ニーベルンゲンの歌』は、15世紀初期には断片的にではあるが変容や加筆もあったことがわかっている。写本mに書かれていたと考えられているクリームヒルト救出と竜退治など、ニーベルンゲンの歌以前の伝説においても存在しなかった話が加えられているためである。16世紀頃になると急速に廃れていった『ニーベルンゲンの歌』であるが、ニーベルンゲン伝説としては変容されつつも残っており、16世紀には『不死身のザイフリート』が刊行されている他、多数の作品を作ったマイスタージンガーのハンス・ザックスも『不死身のゾイフリート』を作成している。さらに17、18世紀にはより民衆化された『不死身のジークフリート』が刊行されている。このように一般化していく中で韻文から散文になり、神話的な色は薄れ、より現実的、日常的な解釈が目立つようになった。 『ニーベルンゲンの歌』は発見以降しばらくは日陰者的扱いであった。これはドイツが文化的に外国へ追随していた時代であったためだ。1757年にはヨハン・ヤーコプ・ボードマーが、1782年にはクリストフ・ハインリヒ・ミュラーがそれぞれテクストを. ディートリッヒ :東ゴート族の王(454年 - 526年)。エッツェル率いるフン族に加勢する。 9. 中世にはフランスの『ロランの歌』やドイツの『ニーベルンゲンの歌』などのほかに、ダンテの『神曲』(1307~21)が書かれ、また近世には聖書の楽園喪失の物語を扱ったミルトンの『失楽園』(1667)などが生まれているが、これらはそれぞれの時代精神を. 元になったジークフリートの物語は、北欧神話のシグルズの物語と起源を同じくし、後半のクリームヒルトの物語は、12世紀にドナウ川流域で作られたとされるブルグント族の滅亡をうたった叙事詩に由来する。 『ニーベルンゲンの歌』は、他の詩篇などとの関わりから1200年から1205年頃に成立したと考えられているが、作者については高い教養をもっていただろうということしか分からない。ミンネゼンガーなのか、騎士なのか、僧侶なのか、今なお判然としない。ただし出身地については、作中におけるドイツ南東部のパッサウからオーストリアのウィーン近郊の描写が他の部分に比べ非常に正確であり、またドナウ川などの記述が体験的なものであることから、この一帯出身であるとほぼ確定されている。 現在に伝わっている写本の数から、成立以降この作品はかなりの好評を博していたと予想される。しかし16世紀頃を最後に急速に忘れ去られていった。.

ニーベルンゲンの歌の前半でジークフリートを嵌めた知謀と、後半で発揮した武勇の両方が伺えるエピソードである。 後述のとおり、このエピソードはニーベルンゲンの歌でも何度か言及されている。. 台本もドイツの叙事詩『ニーベルンゲンの歌』や北欧神話を題材として、ワーグナー自身が手がけた。 全体は、序夜『ラインの黄金』、第1日『ワルキューレ』、第2日『ジークフリート』、第3日『神々の黄昏』の4部から成り、上演に4日間、延べ約15時間を. ヴォルムスには、ホロコーストが行われるまでドイツ語圏で最古かつ最大とされるユダヤ人コミュニティーが存在していました。イタリアやフランスからやって来たユダヤ人商人がこの地に定住するのは、960年頃から。彼らはやがて町の1地区に共同体を結成し、その中で独自の文化を育んでいったのです。 黄金期を迎える12世紀にはドイツ国内最大のユダヤ人コミュニティーにまで成長します。ドイツにおけるユダヤの教え、文化の中心として「小エルサレム」とも評されたヴォルムスのコミュニティーでしたが、彼らの歴史には常に他者からの迫害がつきまとっていたという悲しい事実もあります。 最も古いものとして知られるのは、1096年の第1回十字軍運動でのユダヤ人迫害。反ユダヤ思想を掲げるドイツ人の大勢がマインツやヴォルムスに押し寄せ、シナゴーグを焼き払ったほかユダヤ人に対する暴行や殺害を行います。この際ヴォルムスだけでも800人のユダヤ人が犠牲になりました。 その後も度重なる迫害を乗り越えてきたヴォルムスのユダヤ人コミュニティーでしたが、ナチスのホロコーストにより遂に消滅。このとき300人以上が命を落としたほか、海外への逃亡を図ったユダヤ人の多くがナチスの手に落ち殺害されました。 ホロコースト以来ヴォルムスにはユダヤ人コミュニティーは存在していません。その代わりとして再建されたシナゴーグやその周辺、ユダヤ博物館などが、この地に生きていたユダヤ人の歴史を現代に伝えています。 ニーベルンゲン の 歌 町の西側にはユダヤ人墓地も残されています。古い墓碑は1058年まで遡るものも。重要人物も多く埋葬されており、ユダヤ人におけるある種の巡礼地とも言える場所です。. 「ニーベルンゲンの歌」その物は13世紀に書かれたものだが、起源は古く5~6世紀のゲルマン大移動にまで遡るらしい。 その起源は大きくわけて二つで、一つは「ブリュンヒルト伝説」もう一つは「ブルグント伝説」と言われている。. 《ニーベルンゲンの歌》にたどり着いた 年にコンサートツアーでヨーロッパへ行った時、ベルリンの地下鉄の「リヒャルト・ワーグナー広場」駅で線路の向こうの壁に、ワーグナーにゆかりがあると思われるたくさんのレリーフが飾られているのを見た。. 19世紀ドイツの作曲家であるリヒャルト・ワーグナーはこの物語に取材して、4夜からなる楽劇『ニーベルングの指環』を書いた。 なお、ワーグナーの『指環』はアイスランド・サガの中の、『ヴォルスンガ・サガ』や『エッダ』の内容も取り入れている。.

エッツェル :フン族の王。未亡人となったクリームヒルトに求婚する。 7. . ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 - ニーベルンゲンの歌の用語解説 - ドイツ中世の英雄叙事詩の代表作。古くは『ニーベルンゲンの災い』 Der ニーベルンゲン の 歌 Nibelunge Nôtといわれた。ゲルマンの異教時代の英雄伝説,歌謡をもとに,13世紀初頭,ドナウ川流域出身の騎士詩人によって書かれたと推定される. さて『ニーベルンゲンの歌』ですが、ここでショーペンハウアーを引き合いに出しておられるのがさすが円さんだと感激させられます。 ショーペンハウアーと「ニーベルンゲン」は、実は作曲家ワーグナーという登場人物を介したエピソードもあるのだとか. クリームヒルト:グンテルの妹。ジークフリートの妻となる。未亡人としてはエッツェルと結婚する。 4.

中高ドイツ語による原題は、写本によって Der Nibelunge liet と Der Nibelunge Nôtの2通りの表記がある。『ニーベルンゲンの歌』とは前者を訳したものであり、後者の場合『ニーベルンゲンの災い』と訳されるべきである。ただし1898年の英訳版は表題を『Fall of the Niebelungs』(ニーベルング族の没落)としている。 なお、ニーベルンゲン (Nibelungen) とは本来「ニーベルング(ドイツ語版、英語版)」の属格形である。1909年の英訳版は表題を『Nibelungenlied』(「ニーベルングの」+「歌」)としている。このため『ニーベルンゲンの歌』は、「ニーベルングの」という意味が既にある言葉にさらに格助詞「の」を付けた重言で、誤りであるという意見もある。この考え方から『ニーベルングの歌』あるいは『ニーベルングの災い』と訳されることもある。 しかし一方、ニーベルンゲン(Niebelungen)はニーベルンゲ(Niebelunge)の複数形でもあり、この場合は主格でも「ニーベルンゲン」である。原題の冠詞を中高ドイツ語の文法で解釈するとこれは複数形であるので、「ニーベルンゲンは属格であるから誤りだ」という主張は成り立たない。一方でワーグナーの楽劇の原題は ニーベルンゲン の 歌 Der Ring des Niebelungen であり、ここでのニーベルンゲンは単数形属格である。ただしいずれにしろ、単数形主格はニーベルンゲ(Niebelunge)であり、ニーベルングではない。 表題の由来についてはいくつかの説がある。ニーベルングがジークフリートによって滅ぼされた小人のニーベルング族を指すとするならば、物語全体の前史に過ぎない部分(劇中においては過去形で語られるのみである)が題名になっていることになることもあり、論点となっている。 1. さてさて、『ニーベルンゲンの歌』は、以前、関楠生『ドイツ名作が面白い 』(アテナ選書)という本を読んだ時に、あらすじが面白そうで、気になっていた本なんです。 調べたらちょうど新訳が出ていたので読んでみました。. 『ニーベルンゲンの歌』 ドイツ文学の授業で、テストに出すから各自読んでおくようにと指示されたもの。 で、ぱーっと目を通したんだけど、すごいです。 陰惨★(*^・^*)/ みんながみんな、この悲劇の参加者だったんですねー。.

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